ドーナツと聞いて思い浮かべるのは、こういう形。

大抵の人がそうだろう。
扁球形のボディにぽっかりと空いた丸い穴。魅惑のトーラス体。これぞドーナツだ。
だが、もちろん中には穴の空いていないドーナツだって存在する。

こんな感じの。
しかしこれを一目見て、「ああ、これはドーナツだね」と、確信を持って答えられる人は少ないはずだ。
だってこれはもしかしたらカレーパンかもしれないじゃないか。現にこれはカレーパンのイラストであるしね。それにドーナツと聞いてこの形を思い浮かべる人は、ことさら少数派だと思うのだ……いや、どうなのだろう。本当はそんなことないのかしらん(なんだか不安になってきたが……)。
ともあれ私は声を大にして言いたい。
やはりドーナツには穴が空いていないといけないのだ――いや、「いけない」というのはいささか押し付けがましいか――やはり、ドーナツには穴が空いていてほしいのだ、私は。うん。
しかし、だからと言ってドーナツをドーナツたらしめるものは「穴の存在」なのかと聞かれたら、それも違うような気がするんだな。
例えばこんなものがあったとしよう。
下図のお菓子は、ドーナツと全く同じ材料と工程で作られたお菓子だ。そしてこれまたドーナツと同じように、真ん中に丸い穴が空いている。
ドーナツと違う点はただひとつ。

ゴツい。そして……

薄い。
さて、これは果たしてドーナツと言えるのかしらん。
こいつを生み出した人が「これはドーナツだ!」と言い切ってしまえば、こいつもドーナツということになるのだろうか。なにせ材料も工程も穴も、全てがドーナツと同じなのだから。広義の意味では、こいつもドーナツの仲間なのかもしれない。
しかし我々の感覚からしたら、それはなかなかに受け入れ難い事実である。
お店の人が「当店のドーナツはこういうドーナツなんですよ!」と言ってこいつをお出ししてきたとして、「はあ、そうですか」と一応返事はするものの、心の底から納得することはないだろう。
ドーナツを買ってルンルン気分でお家に帰り、「さて!」と箱を開けてこいつが入っていたら、私は真っ先に君に電話をする。君、君!実はこんなことがあったんだよ、どうだい?って具合にね。
頭が固いと思われるか。でも大半がそうだろう。
例えば、麦茶だと思って勢いよく口に含んだものが麺つゆだった時と同じように、イメージの裏切りというものは、高揚感に対して死角からいきなり水を浴びせ、我々をかようにも意気沮喪とさせる。
その期待感が大きければ大きいほどに。
……つまるところ箱を開けたらそこには、あのドーナツがあってほしいのだ。
一風変わったところなど何1つとしてない。奇をてらった箇所などどこにもない。
扁球形のボディにぽっかりと空いた丸い穴。そんな魅惑のトーラス体。
それこそがドーナツ、なのだよ。うん。
そしてそんなドーナツを作れる日々を、私は常々夢みているのである。
……ところで、そんな万人共通のイメージであるドーナツに必要不可欠な「穴」という存在に対して、私はとても心揺さぶられる不思議な感情を抱いているのだが、長くなるし言語化も上手くできないので、それはまた別の機会に。
とりあえず、そんな思いの丈を詰め込んだ「海辺のドーナツ」をぜひぜひ読んでください。